キャリアデザインの視点を歴史上の偉人から探る!武士以外の仕事から転職して成り上がった武将たちのエピソードをご紹介

キャリアデザインの視点を歴史上の偉人から探る!武士以外の仕事から転職して成り上がった武将たちのエピソードをご紹介

キャリアデザインの視点を歴史上の偉人から探る!武士以外の仕事から転職して成り上がった武将たちのエピソードをご紹介

10月に入り、大河ドラマも終盤に入ってきてしまい、もうすぐで終わるのかと思うと少しさみしい気持ちにもなってしまいます。今年は北条義時を中心とした鎌倉時代、来年は徳川家康をメインとした戦国〜江戸時代です。

この時代はやはり武士、侍の台頭ですよね。
武士は世襲制で代々家督を継いでいくイメージですが、武士ではない仕事から転職して武士になった人もいるのです。

今も昔も親の仕事を継ぐということは多々あるかと思いますが、今回は、武士(侍)ではない仕事から武将に成り上がった人たちをキャリアデザインの視点から考察してみたいと思います。

斉藤道三


斉藤道三といえば、美濃(岐阜)のマムシと呼ばれ、恐れられた大名ですが、もともとは油商人から成りあがったとされています。 斉藤道三はいくつも名前が変わっています。史実で出てくるエピソードでは、「庄五郎」という名で出てきます。

庄五郎は油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとり、油商人となり山崎屋を称しました。庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていました。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種の人目を引くための行為を見せるというもので、美濃で評判になっていました。

行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ考えます。 そして、一念発起して、油商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったと言われているのです

その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功し、武士の道を開いたと言われています。
※実はこの話は斉藤道三の父だった長井新左衛門尉の話ではないと言われています。

ここではその真偽を判断する場ではなたいため、道三の話としてご紹介します。

キャリアデザインとして、キッカケになるのが【反骨精神】だったり、【反発心】だったりします。

今まで成功していた技術や才能を他人から否定的に言われたとして、
「そんなことはない。どんな業種でも自分は絶対成果が出せる」と思い、
違う道を選ぶということもあるのではないでしょうか?

自分も若い頃に周りから言われて、なにくそという気持ちが新しいことに挑戦するキッカケになったこともありましたし、反骨精神もキャリアデザインに必要だと思います。

黒田重隆


黒田重隆はあまり有名ではないかもしれませんが、黒田官兵衛の祖父です。 黒田重隆(1508年~1564年2月6日)は、若いころ、備前の福岡(現在の岡山県)に在住していたと言われています。

その後、播磨に移住した黒田重隆は広峯神社の御使と組んで、家伝の「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬の製造・販売を行ったそうです。

薬の効能の上に神様の御利益までついているということで、飛ぶように売れたそうです。そしてそこで得た財を低金利で貸付け、たちまち土豪として成長しました。

姫路で有力な土豪に成長した黒田重隆は、御着城主の小寺氏の目に留まるところとなり、黒田氏が財を成したことが、小寺氏への仕官のチャンスになりました。 そういった財を成す経済的な手腕などの才覚が認められ、仕官ができたそうです。

キャリアデザインの方法としては、ヘッドハンティングされたといったところでしょうか? もしくは会社の代表をやっていたけど、役員として招かれた、そんなイメージでしょうか?

決して、その目薬の商売をやめたわけではないそうです。黒田重隆の場合は成果が出ていたうえで、違う道(武士)を兼業、副業的に取り組んだイメージなのかなと思います。

豊臣秀吉


百姓つまり農民から天下人になった豊臣秀吉ですが、彼が武士になれたのもいくつかの転機があったからだと言われています。

秀吉の出世話にはいくつか諸説がありますから、どの順番なのかは不明ですが、一つ大きなキッカケとすると清州城の「三日普請」と呼ばれるエピソードです。

どういった話かというと、秀吉が織田信長に清州城の工事の普請を任されたのですが、たった3日間で完成させたというものです。

織田信長が天下取りの重要拠点にしていた城といえば清洲城です。しかし、ある日、台風によって清洲城城の塀が壊れてしまいます。 信長は清洲城を居城にしていましたので、敵が攻めてきたらひとたまりもありません。築はかなり急ぎの任務です。

信長はもともと普請奉行の山淵右近に修繕するように命じていましたが、二十日経っても修繕は完了しません。
※普請奉行とは、城の工事を担当する現場監督。

その時、秀吉は「自分ならもっと早くできる」と言い、信長から普請を命じられて、三日で完成させたというものです。

秀吉のエピソードと言えば、草履を暖めておいたものや墨俣城の一夜城などがありますが、 やはり人の心をつかむ天才で、上司からも一目を置かれる存在でドンドン出世していったのでしょう。

そんな秀吉ですが、どうやって武士になったのかというと、武家であった松下氏に拾われたからとされています。 「今の馬込川のほとりで松下加兵衛に拾われことがきっかけで、松下家に仕えることとなり、武家奉公するようになった」と、『太閤素生記』というう本に書かれているそうです。

今川氏に仕えていた松下氏でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、難を逃れ、織田氏に仕えるようになったと言われています。 おそらく秀吉の場合は前述の2人のように財を成していたわけではないと思います。成功(出世)を目指して、当時のトップの職業であった武士を目指したのでしょう。

今回のキャリアデザインのパターン


今回、ご紹介した3人のパターンをまとめるとこのようなイメージです。

①反骨精神でうまくいっていても、違う道で挑戦してみる
②うまくいっているからこそ、違う道を兼業的・副業的に挑戦してみる
③本当に何もないところから成功を目指す

キャリアデザインの視点として、

①は今の安定を手放してでもやりたいと思ったことがあったら、挑戦できる人向け
②は今の安定を決して手放すわけではないが、さらに収入を増やす柱を作ってみたい人向け
③は学歴や経歴はまったくないが、一念発起して泥臭くやっていこうと思える人向け

といえるかもしれません。経営者の人たちは意外に学歴が関係なく、活躍されている方がたくさんいらっしゃいます。何かも手放すことに恐さを感じる人、とりあえず何でもやってみようと思う人、それぞれにあったキャリアデザインがあるわけですが、過去の偉人たちからヒントが見えてくるのではないでしょうか?


もちろん、戦国時代と今では時代も違いますので、すべてを参考にできる訳ではないと思いますが、過去の英雄たちがどうやって己の人生を切り拓いて行ったのかを知ることは自分の人生を考えるキッカケになると思います。 もしご興味持っていただけたら、ぜひ他の歴史上の人物も調べてみてください。


【執筆者情報】

ビジネスゲーム研究所 米澤徳晃

研修会社に入社後、研修営業、研修講師業に従事。その後、社会保険労務士法人で人事評価制度の構築やキャリアコンサルティング活動に従事。その後、独立。講師登壇は年間50登壇を超え、講師としてのモットーは、「仕事に情熱を持って、楽しめる人たちを増やし続けたい」という想いで、企業研修を行っている。

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