歴史上の人物からマネジメントを学ぶシリーズ
~戦国武将編~

歴史上の人物からマネジメントを学ぶシリーズ<br>~戦国武将編~

歴史上の人物からマネジメントを学ぶシリーズ
~戦国武将編~

戦国武将

今回は、歴史上の人物から学ぶシリーズとして、人材育成や人材マネジメントなどの人事領域に関わる題材に過去の歴史から学べるものをご紹介していきたいと思います。

私自身、大学の専攻が史学科の西洋古代史でして、歴史はもっぱら好きな方です。ただ、大学卒業から十数年経ち、歴史的探究を詳しく掘り下げて勉強してきた訳ではないが実情です。本コラムでは、そこまで難しい内容ではなく、調べたらわかりそうなところまでで、ご紹介していきたいと思います。あしからず、ご了承くださいませ。

さて、今回は戦国武将から学べるマネジメントや部下との信頼構築術について、ご紹介していきたいと思いますが、 今回は、武田信玄と徳川家康の2名をご紹介いたします。

①武田信玄


武田信玄の信玄は、出家後の法名で、正式には、武田晴信という名前です。

武田信玄を知らない方はあまりいらっしゃらない方と思いますが、簡単にご紹介をします。

武田信玄´sプロフィール


生年月日:1521年12月1日
出身:甲斐国(現在の山梨県)
お家柄:甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家の名門のお家柄。
家族構成:父は第18代・武田信虎、母は大井の方
妻は3人、子どもは、12人

戦国武将


父の信虎とはあまり関係が良くなく、最終的には駿府の今川家へ追放しています(生活費などは送金していたそうですが)

信玄自身、戦国時代では、130以上の合戦を経験した武将です。 信玄は父の信虎を追放後、甲斐国のみならず、隣の信濃国(長野県)、駿河、遠江、三河、美濃、飛騨などの一部まで領土を拡げていきました。

そんな武田信玄の信条を表す有名な言葉がございます。

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」

国を支える根本は人材であるという信念です。

信玄は、人民こそが城となって、国を守ってくれるのだから、最も人を大切にしなければならない。 情けは人の心をつなぐが、仇は心を離れさせてしまうと説いています。 戦国時代は、戦国武将、大名たちは、堀や石垣、天守を備えた城を築城することを好んでいました。城には大名の力を示したり、合戦のときには司令基地となったりする役割があるためです。

しかし、信玄は、堀一重の館に住み、堅牢な城を築きませんでした。築城には、お金も人材もかなり必要となってきます。そういった立派な城を築くよりも、強い武士を育て、戦う集団を作ることの方が大切だと考えたのではないでしょうか?

また、人は、情けをかければ味方になりますが、恨みを持たれれば敵になります。権力で抑えつければ家臣は離れていき、敵になることもあると考えたのでしょう。信玄は「信頼してこそ人は尽くしてくれるもの」とも言い、家臣に積極的に話しかけていたそうです。

家臣を信頼し、大切に重用すれば、彼らの士気や忠誠心が高まります。信玄は、実力主義を徹底していたと言われています。家臣と積極的に対話し、働きぶりをよく観察し、正しく評価をしていたと思われます。

信玄は、人材登用でも、自分の好みの部下だけを使ってはいけないとしています。人材を好き嫌いの感情だけで人を選んでしまうと、好みに合わなければ、優秀で役に立つ人間を遠ざけてしまう可能性があります。そうではなく、人ではなく、その人の能力を見て使うべきだと言い切っています。 常日頃、それら家臣たちに「何でも進言するように」と言っていました。違う意見であっても、相手のいうことによく耳を傾けることで、意見しやすい環境を整えています。

よく企業は人なり

と言いますが、信玄の手によって、武田家や武田家臣団が形成されていったのと一緒だと思います。 働く人たちがモチベーション高く働くためには、従業員をただの駒扱いするのではなく、従業員の働く環境や従業員の成長のために、人に投資を行うことの重要性を気付かせてくれるとても参考になるエピソードではないでしょうか。

②徳川家康


続いては、戦国の世を終わらせ、250年の太平の世の基礎を作った徳川家康をご紹介します。

徳川家康´sプロフィール


生年月日:1543年1月31日
出身:三河国(現在の愛知県)
お家柄:家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代
家族構成:父は三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)
妻は正室、側室、合わせて、実に22人!
子どもは、実子だけで16人。

戦国武将

徳川家康は、改名後の名前で、その前は松平元康となっていました。家康は、幼少の頃より今川家の人質として育ち、途中で織田家の人質になり、また今川家の人質になるなど不遇の生活を送っていました。ですが、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れると生まれ故郷の三河に戻り、大名にのし上がっていったのです。

みなさんは、徳川家康と聞くと、どんな性格や人柄を思い浮かべますか?どんなイメージをお持ちでしょうか?

たぬき親父と呼ばれるなど、老獪なイメージがあるようです。

また、こんなイメージもお持ちではないでしょうか?

忍耐強さ

それを表現したものとして、

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

という句があります。

機が熟すまで辛抱強く待とう、という家康の忍耐強さを表現した句です。※この句を実際に家康が詠んだわけではありません。

忍耐強く、我慢強いという一面もありますが、 実は、若い頃はとくにキレやすい、短気という性格だったようです。

若い頃は、反りが合わない部下を縁側から突き落とすほどの癇癪持ちだったというエピソードも残っているようです。

ただ、歳を重ねるにつれて、我慢強さや忍耐強さが備わり、人材管理にもかなり力を入れていたようです。

そんな徳川家康を支えたものは、何よりも家臣たちでした。

「家康に三河武士あり」として、三河武士の勇猛ぶりは広く知られています。例えば、徳川四天王でいうと、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、井伊直政などでしょう。

ほかにも大久保忠世や石川数正、本多正純など、有能な家臣たちが大勢いました。

その家臣たちを無下にすることなく、大切にし、信頼をしていたエピソードが残っています。
あるとき、名のある茶道具を蒐集している豊臣秀吉に徳川殿と宝物は何ですか?と言われて、「私のために命を捨てる家臣たちが宝です」と答えるほどだったそうです。

いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある

上司に進言することは、部下にはなかなかできません。それをあえて、勇気を持って実行してくれる部下は、それだけで大切にするべき存在だとしています。

家康と家臣の信頼づくりは、武田信玄に近いものがあるように感じます。

徳川家康は、隣国のライバルである武田信玄を尊敬し、参考にしていたといいますし、武田家滅亡後は多くの旧武田家臣を徳川家臣に取り入れたとされています。 (井伊直政の配下に入れ、井伊の赤備えといわれるようにはったのは有名なエピソードです)

人を大事にし、マネジメントに力を入れていたという点で、この二人はとても似ていると思いますが、 今の会社経営でも共通する点が多く、とても参考になると思います。


今回は、組織マネジメントや人材マネジメントに役に立ちそうなエピソードを歴史上の戦国武将から学ぶシリーズとしてご紹介していきました。

上司として、リーダーとして迷うことがあったら、こういった過去の偉人たちだったら、どう考えるんだろうか?という視点で、
悩んでいることや解決したいことを考えてみてはいかがでしょうか?新たなひらめきやヒントが思いつくかもしれません。

ぜひ参考にして考えてみてください。


【執筆者情報】

ビジネスゲーム研究所 米澤徳晃

研修会社に入社後、研修営業、研修講師業に従事。その後、社会保険労務士法人で人事評価制度の構築やキャリアコンサルティング活動に従事。その後、独立。講師登壇は年間50登壇を超え、講師としてのモットーは、「仕事に情熱を持って、楽しめる人たちを増やし続けたい」という想いで、企業研修を行っている。

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